僕は「肩胛骨のメカニズム」で次のように言いました。

1.肩胛骨の膨らみと前肩はふたつでひとつの関係。
2.前肩が強い体型ほど肩胛骨の膨らみも大きい。
3.前肩処理がされない以上、肩をイセても意味がない。

下の写真は前肩体型に加工したダミーに服を着せたものです。
加工は左の肩のみに施してあるため、左身頃が肩で引っかかって前に入ってきません。前肩体型の人が前肩処理をしていない服を着るとこうなります。腕や首の運動が妨げられとても不快です。そして肩凝りの大きな原因ともなります。





こうした問題を解決し快適な服を作りたいという目的から、肩グセ処理というアイロンテクニックが生まれました。
前肩が何であるか。それを知らない人はいないと思います。しかし前肩処理の方法について知っている人も案外少ないのではないでしょうか。 恐らく婦人をやっている方々はほとんど知らないと思います。日本人には前肩体型が多いと言われていますが、そういった体型の人に合わせて服を作ろうと思ったら、どうしてもこの処理が必要になってきます。しかし世の中に出回っている既製服の中に、前肩処理がきっちり成された服を僕は見たことがありません。ほとんどが「なんちゃって」です。そして不思議なことに、背中のイセばかりを強調しています。メカニズムが理解されていない証拠です。

是非時間のあるときに、もういちど「肩胛骨のメカニズム」を読み返していただきたいのですが、要するに、肩胛骨の膨らみ具合と前肩の強さとは比例関係にあり、ふたつの要素がひとつの現象を構築しているため、片方だけを単独で考えても意味がないということをご理解いただきたいのです。これは衿と衿グリ、袖とアームホール同様、いつも言うところのふたつでひとつの関係です。複数の要素が複雑に絡み合って構築されているため、考えるなら両方を同時に考えなければならないという意味でした。そこで今回は、肩胛骨の膨らみとは切り離せない前肩についてもう少し掘り下げてみようかと思います。前肩とはいったい何なのか。どのような形状になっているのか。肩グセとは何か。パターンメーキングで対処可能かなどなど、順を追って見ていきましょう。
 



1. 前肩とは何か

下図は人の身体を俯瞰したものです。
Aに比べてBは肩線が前に湾曲し、アームホールの切断面が前に傾いています。このような体型を前肩と言いますが、前肩が強いとは、この湾曲加減が大きくなるという意味で、背中の赤矢印を見ればわかるとおり、湾曲が強ければ強いほど、肩胛骨の膨らみが大きくなり、弱ければ少なくなります。したがってBのような体型に合わせて服を作ろうと思ったら、赤矢印に沿うように背中をカーブさせる必要があります。肩のイセはそのためにあるわけですが、湾曲が大きくなればなるほど、イセ量も多くなることは言うまでもありません。




下の写真は実際にシーチングで組んだものです。左は背中をイセてない状態ですが、右はダミーの膨らみに合わせてダーツを取った状態です。白破線が示すとおり、背中と肩線が湾曲する様子が解ります。
赤破線の楕円はアームホールを表していますが、右の写真を見ると、位置が前にずれ、同時に切断面傾斜が変化しています。この写真では、ダミーがそれほど前肩になっていないため解りにくいかも知れませんが、白破線の矢印の方向に肩先が押し出され、結果として赤X付近が大きく浮いてきます。





2. 肩グセのメカニズム

下の写真Aの左側はダミーに前肩のパッドを積んだ状態です。右はそのダミーでドレーピングしたものです。白X付近をピンで押さえてあるのですが、かなり浮いているため360度の方向から引かれシワが出ています。前肩体型に前肩処理をしていない服を着せた場合、前肩の程度に応じて必ず写真のような現象が生じます。このシワを取り、浮きを無くす操作が肩グセ取りです。
しかしいったいどうやればいいのでしょうか。頭の中でシミュレーションしていただきたいのですが、このシワを取り除く方法はふたつしかありません。ひとつは、白X付近を中心に360度の方向にイセることです。これは絞り染めをイメージしてもらうと解り易いかも知れませんが、要は白X付近をつまんで、小さなてるてる坊主を作るように糸で縛ります。すると360度の方向にシワが広がります。これをアイロンで殺し込むわけです。僕は修業時代にその方法を親方から学びましたが、数あるアイロンテクニックの中で、最も難しいと感じていました。衿グリや肩線やアームホールを伸ばさず、白X付近を中心に360度の方向にイセ込んでいくのですが、そう簡単にできるものではありません。想像するだけでもその難しさが解りますよね。

そこでもうひとつの方法です。
衿グリや肩線やアームホールを伸ばさず、白X付近を中心に360度の方向にイセ込んでいくというのは、やってみれば解りますが、よっぽど甘い生地ならいざ知らず、一般的な素材ではほとんど不可能です。 ところが衿グリや肩線やアームホールを伸ばしてもいい、ということになると、この操作は極めて簡単になってしまいます。押してもダメなら引いてみなってやつですね。イセる事とは伸ばすことでもある、という意味がとても良く理解できる操作ですが、白X付近を中心に、今度は360度の方向に放射状に切り込みを入れてやるのです。





下の写真Bがそうですが、ここでは衿グリと肩線の2方向に分散させて切り込みを入れました。結果として衿グリ、肩線が開きましたが、浮きはなくなり、身体にぴったり納まりました。
開くということは伸ばすということです。実際にはこんな切り込みは入れられるわけがないのですから、代わりに衿グリ、肩線を伸ばすことで同じ効果を得るわけです。アームホールも伸ばしてやれば更に効果的でしょう。僕の親方もそうでしたが、少なくとも僕の知っている限り、多くのテーラーの職人はこの方法で肩グセを取っていました。アームホールを伸ばすというのはあまり聞いたことがありませんが、衿グリと肩線は少しずつ伸ばしつつ同時に白X付近をイセ込むという、双方からの歩み寄りで処理していました。とても難しいワザです。





下の写真Cはシーチングで組んだものですが、前身は肩線のみを切り開いています。
皆さんはメンズTJ用の作り毛芯を見たことがありますか。 肩線から写真Aの白X位置まで、切り開かれています。どうして毛芯がそうなっているか、ここまでくれば解りますね。表地の肩グセ処理に対応するため、毛芯にはそのような加工が成されています。

前肩に対応し肩グセを取った結果、写真にあるとおり、それまで浮いていた凹みに服が密着するようになりますが、ここに服を密着させることが、肩グセ処理の最大の目的だったのです。これは昔から「三本指の原理」と呼ばれていますが、指三本分の幅で服が身体に密着し、その反動から、身頃のネック側とアームホール側がそれぞれ浮いてきます。首も腕も稼働しなければならない部位なので、服はその部分で浮いていた方が運動を妨げません。





ここまでをまとめます。

1.前肩体型は、首の付け根と肩先に服がぶつかり浮いた状態になる。
2.服が浮くと運動機能を妨げる。
3.肩グセ処理によって服を身体に密着させ、首と腕の動きを確保する。

3. 現実的な処理

これまでの説明で前肩のメカニズムはご理解いただけたと思います。しかし問題はここから先です。現実問題として、衿グリや肩線、アームホールを伸ばすことは可能でしょうか。誤解のないように断っておきますが、これはパターンテクニックで処理できる問題ではありません。先に書いたとおり、テーラーの職人でさえも困窮する難しいアイロンテクニックです。アイロンテクニックを使わずしてどこまで服の完成度を高められるかに僕のパターンメーキングのこだわりがありますが、こればかりはパターンテクニックが使えないのです。クセが集中する箇所は鎖骨下の凹みですから、もしもプリンセスラインが許されるなら、これは簡単に解決できます。というより、プリンセスラインは肩胛骨と前肩、おまけにバストの膨らみを解決するために発現した切替線ですが、特にメンズのTJでは、背中にダーツが取れないのと同様、こんな場所に切替を入れるわけにはいきません。
アイロンテクニックを駆使すれば、どこを伸ばすことも決して不可能ではないと思います。しかし現実問題として考えたとき、アームホールには袖が付きます。袖にはもともとイセ分が含まれます。相手がイセられるという意味では肩線も同じです。後身頃の肩線にはイセが入るわけですから、一方はイセてもう一方を伸ばすとなると、これはちょっと難しそうだとは思いませんか。背中でも袖でも、前身で伸ばす分量を、あらかじめ予定されているイセ量に加算しなければならないわけです。そんなややこしい縫製が、既存の既製服工場ではたしてできるのかという疑問が浮かびます。
冒頭にも書いたとおり、世の中に存在する既製服の中に、前肩処理をきっちり施した服を見たことがありません。それはつまり、既存の縫製工場ではこれができない、という意味ではないでしょうか。中には背中を2cmでも3cmでもイセられると自慢する工場もありますが、そんな工場に限って前肩処理はおざなりです。背中をいくらイセたところで、前肩処理が成されていなければ意味がないのですから。

前肩と肩グセのメカニズムは理解できました。ここから先どうするかは皆さんで考え決めてください。
僕が作るテーラードジャケットはアイロンテクニックをほとんど必要としません。それはいつも申し上げるとおり、パタンナーとして、パターンテクニックのみでどこまで服の完成度を高められるかを追求しているからですが、決してアイロンテクニックを否定しているわけではありません。むしろ本音は、使いたくて仕方がないほどです。しかし先に書いたとおり、現存する既製服工場のテクニックは落ちる一方です。なぜそうなるかはここでは言及しませんが、我々は既製服を作っているわけですから、量産の縫製はテクニックの落ちた工場に依頼する以外に方法がありません。これまで多くの先生方が国の内外を問わず工場指導に当たっているのを知っていますが、もはや諦めざるを得ないと感じているのは僕だけではないと思います。

一方僕は、カッコイイ服はカッコイイ体型に合わせて作るべきだと言っています。その考え方が既製服の主流であるべきだと言っています。
肩胛骨が大きく膨らみ、怒り肩で前肩で、しかも猫背でと、日本人には多いと言われているこのような体型が、はたしてカッコイイですか。僕は決してそうは思いません。またこれは街に出て人々を良く観察すれば解りますが、そのような体型が日本人の特徴だとも思っていません。体型は多種多様。日本人と一口でいいますが、中身はいろいろな体型であふれています。ひとつやふたつの体型に集約することなど決してできません。ではいったいカッコイイ体型とは何か、という問題が浮上します。しかしこれはあくまでも主観的な価値観が決める問題です。だからこそ既製服はメーカーやブランドによって様々なのです。しかし僕の考え方から言えば、肩にたっぷりイセを入れ、きっちり前肩処理が成された服とは、それはつまりカッコ悪い体型に合わせた服を作っていることになります。

というわけで、僕の作るテーラードジャケットにはイセがないのです。普通の技術しか持たない工場が、普通に縫えば普通に上がってくるようなパターンを作っています。肩胛骨の膨らみは少なく、前肩処理など施していません。カッコイイ体型はカッコイイ姿勢にあると僕は言いましたが、参考までに「後姿」に目を通してください。
 





4. 肩グセ取りの実践

そういった訳で、僕のパタンナーとしてのスタンスからは、アイロンテクニックを公開することに少々抵抗があります。しかしこのクセ取りだけは、パターンではどうにもならないということをご理解いただきたいがためにあえてご紹介します。

先に書いたとおり、肩線とアームホールは相手にイセがあるため伸ばしたくありません。そこで衿グリだけを伸ばし、そこで生じるゆがみを前肩の浮きに転化するわけですが、伸ばしていいのは前身のアゴグリのみですから、その量はたかが知れてます。この場合は約7ミリ、アゴグリの約8.5%を伸ばしました。これはもちろん何センチが適当だなどといえる部位ではありません。前肩の強さ、程度によって変わります。ポイントは放射状のダーツを作るという点です。ムービーではダーツの止まりに相当する部分にシロモでX印を付けていますが、アゴグリのゆがみをここへ向かって追い込むのですが、これはなかなかできませんよ。是非やってみてください。既製服の縫製工場では無理だという僕の言い分が理解できると思います。アイロンテクニックは、量産にはまったく不向きなテクニックなのです。できるだけこれを排除したいという僕の思いをご理解ください。デザイン的に許されるなら、是非とも切替で逃げたいものです。X印を通る切替線(プリンセスライン)がいかに有効か、お解りですよね。

クセ取りを終えた服を前肩に作ったダミーに着せてみました。身体にぴったり張り付いている様子がお解りかと思います。アイロンテクニックってすごいですよね。だから僕はずるいって言うんです。アイロンがちゃんと使えるなら、服作りはほとんど苦労しないんですから。