1990年~
MEN’S BIGIがその歴史上最高の売上を達成すると同時に、僕はこのブランドに於ける自分の役割が終わったと感じました。そろそろ次のステップに進む頃だと感じました。35歳という年齢がそれを後押ししたのかも知れません。バブル崩壊が叫ばれる世間の中でしたが、僕にはまるで興味のない話でした。景気がどうだろうと僕の知ったことではないのです。多くの職人がそうであるように、僕の頭の中はいつでも物作りでいっぱいで、経済や政治のことなど考える隙間はありません。やりたいことは山ほどありました。それは夢とか希望という意味ではなく、考えていることを実際にやってみて、その結果を見てみたいという、いわば実験、検証とも言える欲望でした。

1990年の夏、15年間在籍したMEN’S BIGIを退職し、僕はアークティックカンパニーという小さな会社を興しました。杉並の永福町に事務所を構え、これまでの付き合いの方々から依頼されるがままに外注パターンの仕事をはじめました。池袋の叔父の元での修行を糧に、テーラーの真似事もはじめました。自分で生地を仕入れ、顧客を開拓し、採寸から仮縫いまでを僕がやり、最後の縫製は職人に頼みました。叔父はすでに隠居を決め、バブルの崩壊と共に、テーラーの職人はこの世から消えつつありました。しかし僕は、完璧な仮縫いを経たパターンさえあれば、縫製職人は既製服の腕で十分だと考えました。既製服の柔らかさがテーラーの堅い上がりより受ける時代となっていました。

そこそこの評判を呼び、芸能人から注文が入るようにもなりました。仕入れや家賃などの経費が嵩張り、決して儲かりはしませんでしたが、何とか食っていくだけの稼ぎはありました。しかし僕が本当にやってみたかったのはパターンがらみではありません。職人一筋でやってきた僕にとって、それまでは頭の中にしか存在しなかったビジネスという仮説を、僕は現実社会で検証したかったのです。モノを作るばかりではなく、自分の考えた戦略で商売をしてみたいと考えていました。いわゆる無い物ねだりというやつでしょうが、僕にとっては未経験の魅力的な世界だったのです。

1991年、僕はイギリスに渡りました。ロンドンから車で2時間弱、ESSEXという小さな田舎町を目指し、僕は高速道路を東へ走りました。牧草に覆われた低い岡が波のように重なり、かつて狐狩りの獲物を住まわせるために作ったのではないかと思わせる森の間を、空いた高速は快適に延びていました。目指す工場はESSEXの街外れにひっそりとありました。古ぼけた煉瓦に囲まれたその建物は、確かに昔ながらの手作りを感じさせる説得力がありました。グラスファイバーを成形するシンナーの臭いが辺りに漂っていました。

「KENNNETT & LINDSELL」はヨーロッパ最大のシェアと、200年以上の歴史を誇るボディーメーカーです。日本にはまだ販売代理店のないこの老舗の商品を、僕は日本のアパレル業界に売り込みたいと考えていたのです。僕はMEN’S BIGI時代からこのボディーを使っていました。タケ先生のパリコレのため、パリのアトリエで下働きをしていた頃、当時のチーフパタンナーだった先輩と共に、パリのブティックのショウウインドウで見たのが最初でした。ナチュラルな肩先が印象的なメンズダミーです。着せ付けられていたジャケットが実際より数倍も優れているように見えました。このダミーを使えばもっといいパターンが作れるに違いない。先輩は僕にそう言いました。


メンズのドレーピングがほとんど行われていない当時の日本には、パターンメーキングに使えるメンズ用ボディーは皆無でした。パリにはSTOCKMANという有名なボディーもあり、僕たちはニューヨークのWOLFなどと共にドレーピング用ダミーの検討をしていましたが、どれも今ひとつピンとくるものがありませんでした。しかしK+Lは違っていました。それがイギリス製だというのは後から知ったことですが、やはり男の洋服はイギリスだという先入観も手伝って、僕たちは宝物でも掘り当てたように喜びました。すぐに入手先を探してもらい、材料屋を通して何とか購入し、日本に持ち帰ることができました。その後は必要に応じてイギリスのK+L社に直接オーダーしていたのですが、僕はいつもこのボディーを日本で売るべきだと考えていました。これを使わなければメンズは作れないとさえ思っていました。

MEN’S BIGを辞めた後、僕は何よりも先にこの仕事を実現したいと思っていました。欧米の企業とビジネスの取引をするということがどれほど困難なことか。相手を説得するためにどんな方法で臨めばいいのか。日本を発つ前、僕は本を読み、人に聞き、様々な勉強をしました。ビジネスに関しては特に合理的で割り切った考え方を持つ欧米人を相手に、決して負けない気持ちで交渉に臨まなければと考えていました。通訳のために現地で雇った男からも、相当に用心しなければならないとたしなめられていました。僕はおみやげとして買ってきた信楽焼を渡しました。

初めて会った社長のLENはただの田舎のオッサンでした。Tシャツ姿で現れた彼の大きく突き出たお腹は、隣に陳列してあるマタニティー用のボディーよりも立派でした。剥がれかけた煉瓦の壁や煤けた天井。古傷が染みこんだテーブルや椅子。てっぺんが禿げあがった頭をなでながら僕の話を聞いているLENは、それらの風景に融け込み同化していました。何もかもが古くて、ゆったりとした時間が流れていました。僕の用意した戦略や台本が何の役にも立たないことが予想されました。僕は自分がパタンナーであり、このボディーの良さを誰よりも知っていると伝えました。そしてこれを日本で売らせてもらいたい。それだけを話しました。LENは笑顔で了解してくれました。すぐにショウルーム用サンプルを送ると言ってくれました。注文が取れたらその都度ファクスで連絡しろ。納期は約2ヶ月。航空便で送る。契約書なんて必要ないよ。でもダミーの販売は難しい。広まるまでには時間がかかる。彼は僕にそう言って商談は終わりました。交渉はあっけないほど簡単にまとまりました。たった15分で。僕はアメリカの旅を思い出しました。日本人も外国人も同じだ。人間はみんな同じだと思って嬉しくなりました。

それから僕は日本でもダミー販売をスタートしました。1991年の秋でした。カタログを作り業界にばらまきました。毎日営業に歩きました。しかし注文はいっこうに入りませんでした。LENの言った広まるまでには時間がかかるという言葉が頭の中で繰り返されていました。やがて半年が経ち一年が経ちましたが、販売を始めてから10体も売れませんでした。僕の実験は失敗に終わりました。メンズのダミーなど誰も求めてはいないことを知りました。僕にはビジネスのセンスなどないのだと知りました。

どうもがいても、僕はパタンナーとしてしかやっていけないのだと思いました。そんなとき一本の電話が入りました。相手はゴールドウインというスポーツアパレルでした。パタンナーを探しているという話でした。ミズノやデサントなどと共にその名前は知っていましたが、僕が育ったファッションアパレルとはまるで違う世界だと考えていた僕は、スポーツ屋が作る服などバカにしていましたし、メンビギ上がりの僕が出る幕じゃないと思っていました。そもそもかかってきた電話の声に反感を覚えました。ワタナベと名乗るその男の、横柄で高圧的なものの言い方が気にくわなかったのです。物作りのなんたるかも知らないたかがライセンス屋のくせに、偉そうな口を叩くなと思いました。相手は時間があったら展示会を見に来て欲しいと言って、日時と場所を一方的に伝えていましたが、薄っぺらい服など端から創る気はないので放っておきました。そのうちまた電話がかかってくるだろう。そうしたら正式に断ってやろうと考えました。しかしそれから何週間しても電話はありませんでした。そのうち僕は電話のあったことも忘れてしまい、いつものように釣りに出かけていました。海は黒鯛の最盛期を迎えていました。その日は雨模様の絶好のコンディションでした。今日こそは大物が出るに違いないと思いました。釣り場について支度を調え、カッパの上着に袖を通した時でした。胸のマークに何となく目が止まりました。THE NORTH FACEというロゴがプリントされていました。そのカッパは昔アメリカの旅で買ったものだったのですが、すでに撥水機能もなくなり、衿グリのシームシーリングが劣化して雨がたびたび染みこむようになっていました。そろそろ買い換えなければならない時期だったのです。

アウトドア好きの僕にとってTHE NORTH FACEは憧れのブランドでした。お気に入りの寝袋もTHE NORTH FACEでした。これもアメリカで買ったものでしたが、そうだ、ノースフェイスだ。確かノースフェイスはゴールドウインが持っているブランドではなかったかと思いました。日本ではゴールドウインがライセンス商売をやっていたはずだ。僕は先日の電話を思い出しました。僕がいい加減に聞いていたかも知れませんが、確かブランドについては何も語っていなかったと思いました。ひょっとしたらひょっとするかも知れない。僕はそう考えこっちから電話をすることにしました。 電話口に出たワタナベはやはり横柄な対応でしたが、担当してもらうブランドはTHE NORTH FACEだと言いました。僕は豹変しました。忙しくて展示会には行けなかったと言い訳をし、是非とも話を聞きたいと言いました。

1992年初夏、僕は大きな獲物を釣り上げました。給料はメンビギ時代の半分そこそこでしたが文句は言いません。憧れのブランドにひょんなことから巡り会えたのですから。年間契約という初めての雇用形態でした。専属の契約でしたがサラリーマンのように拘束されるわけではありません。時間は好きに使えるし、他の仕事も自由にできることになっています。MEN’S BIGを退職してから2年。僕はオーダースーツの顧客の我が儘に嫌気がさしていました。ボディーの販売も半ば諦めていました。バブル崩壊後の不景気の中、MEN’S BIGという大看板を失ったパタンナーが、簡単に生きていける世の中ではなくなっていました。自分の考えの甘さと世間知らずを後悔していました。月給取りの有り難さが身にしみていました。THE NORTH FACEは僕にとって救いの手でした。まさに大物を釣り上げたと思いました。しかし同時に、パターンの神様が僕を釣り上げてくれたのです。あの横柄なワタナベが僕を釣り上げたのです。

会って話して僕は驚きました。渡辺貴生というその男は、まだ三十そこそこの若造でした。そして生まれて初めて、僕は5歳も年下の男に敬意を抱きました。立派な男だと思いました。僕がバカにしているスポーツアパレルに、こんな骨のある男がいたのだと驚きました。こいつはいつか必ず大物になるに違いないと思いました。この男の為にいい仕事をしなければならない。薄っぺらい服を脱ぎ捨て、MEN’S BIGのように、日本を代表するブランドにTHE NORTH FACEを育てなければならないと思いました。

1995年~
バブル後の不景気を乗り越えてTHE NORTH FACEは順調に売上を伸ばしました。日本の若者の心を強く捉えられるまでに成長していました。僕も周りのスタッフに助けられながら順調な日々を送りました。MEN’S BIGを離れた時、僕はそれまで味わったことのない自由を堪能しましたが、その後の2年間で、自由の不自由さも味わいました。気ままなフリーという立場はそれなりに意義のあることだと思いますが、僕には向いてなかったようです。学生時代のラグビー部のように、僕はやはりチームの一員として、チームと一緒に生きていくのが性に合ってるようです。かといって満員電車で格闘しながら、タイムカードに支配された人生もまっぴらだとも思いますが、THE NORTH FACEとの契約は僕にとってとて理想に近いものでした。保証された年俸があり、なおかつ時間を自分の判断で自由にコントロールできる。上司も部下もなく、いい仕事を続けさえすれば社会的評価を得られるわけですから、パタンナー冥利に尽きるというか、職人冥利に尽きるというか、この道に進ませてくれた池袋の叔父に感謝せずにはいられません。

しかし一方、僕はいつでも簡単にクビにされるリスクも背負っています。使えないと判断されれば即座にクビになるのもプロパーとは違うところです。だからこそ頑張ろうという気にもなるのですが、あとは自分のプライドの問題でしょうか。かつてMEN’S BIGのチーフをやっていたという自負があります。自分で自分を裏切るようなことはできないという思いです。その思いが僕を引っ張っていたのではないでしょうか。そうこうしているうちに、あの1995年がやってきます。僕のパタンナー人生の中で最も重要な年となる1995年が。それは僕が初めてパソコンを使った年であり、そのためにパタンナーとしての生活を大きく転換させた年でした。以下の引用は拙著「iPM革命序説」からのものですが、当時の僕の思いを素直に綴ったものです。

━━━━━1995年は私の人生にとって忘れることのできない年となった。それはAdobe Illustratorという、かつて経験したことのないまったく新しい道具に出会った年だったからだ。人は一生のうちに、人生を変えてしまうような衝撃的な出会いに遭遇するものだが、私にとってこの出会いがまさにそれだった。
━━━━━Adobe Illustratorは理想の道具だった。私が長年探し求めていた夢の道具だった。街のパソコンショップで売っているたかだか7万そこそこのソフトが、CADを遥かに超える描画機能を備えていることにショックを受けた。私は浦島太郎になった気分だった。パタンナーという小さな殻に閉じこもっているうちに、世界は画期的な進化を遂げていたのだ。そのことを知らなかった自分の無知が情けなかった。茫然自失とはまさにこれだ。パソコン画面の前でフリーズしている私を想像していただきたい。私は子供の頃に釘付けになった街頭テレビを思い出した。子供だからテレビの理屈などわからなかったが、ただ呆然と、画面の中で暴れまくる力道山に見とれているだけの自分を思い出した。
━━━━━自分が頭の中に描いた曲線を、的確に、正確に引くことができた。目から鱗が落ちるという言葉があるが、その意味を私ははじめて理解することができた。ボロボロと音を立てながら鱗がはがれていくのがわかった。上昇する旅客機が突然雲海を抜けるように、自分の未来とパターンメイキングの未来が、まぶしい光とともに広がるような気がした。
━━━━━その日の夜は興奮して一睡もできなかった。遠足の前日の子供のように、夜が明けるのが待ち遠しかった。翌日は早くから家を出た。まだシャッターが閉まっているパソコンショップの前で、私は開店時間を待っていた。それから数時間後、長年使い続けてきた私のパターンデスクの上からは、シャープペンやハサミやカーブ尺など、パターンメイキングに使われる様々な道具たちが姿を消し、その代わりに、ベージュの樹脂で作られた、将棋盤のような箱が置かれていた。その箱の上にはモニタと呼ばれるテレビ画面が乗っていて、手元にはキーボードと呼ばれる計算機のでかい奴が横たわっている。その計算機の端から伸びた細いコードの先には、マウスと呼ばれる、ほんとうにネズミのような格好の、得体の知れないおもちゃのような物体がぶら下がっていた。
━━━━━1995年も暮れようとしている12月25日だったと記憶している。自分へのクリスマスプレゼントだと言い聞かせて購入したパソコンは、私にとって決して安くない投資ではあったが、古い道具を捨て去り、自分自身を大きく進化させる価値があると信じていた。
━━━━━Illustratorを使いはじめて6日目の未明、パターン台に置かれた小さなモニタの中に、私が新しい道具で引いたテーラードジャケットが映し出されていた。私は何日かぶりにマウスから手を離し、この新しい道具が、自分の人生を変えるであろうことを実感した。アパレル業界が変わるかも知れないと思った。

僕がパソコンを仕事の道具として使い始めてまもなく、我がTHE NORTH FACEのスタッフも徐々にパソコンを使い始め、デザイナーもイラレで作業するようになりました。あれから15年。すでにパソコンは自分の身体の一部になっていて、最早パソコン無しの仕事は考えられなくなってしまいました。イラレでパターンをやるようになって、仕事の方法も大きく変わりました。道具に合わせて自分が変わっていったわけです。

2000年~
記念すべきミレニアムの年、僕は渋谷に新たな会社を立ち上げました。SEAGELという名のその会社は、イラストレータでパターンを引くシステムを、全国に普及することを目的としました。もちろん業界にはすでに専用CADというシステムがあり、大手を初めとする多くのメーカーで使われていました。僕は安くて高機能なイラレの存在を、業界のみんなに知らせる必要があると考えていました。そもそも服作りは人の腕を頼りにする仕事ですから、道具などは何でも構わないと考えています。手作業だろうがパソコンだろうが、結果として良い服ができればそれでいいわけです。しかし僕はかねがね「優れた道具とは、その品質を落とすことなく目的を最短時間で達成し、なおかつ低コストで実現できなければならない」という信念を持っていたので、専用CADしかないと信じている業界人に対し、イラレの存在を知らせることは社会正義だと考えていました。必ずみんなの役に立つと信じていました。ちょうどイギリスからメンズのボディーを輸入販売しようと思った動機と一緒です。いい物は必ず売れると信じていたのです。

しかし世の中そう甘くはありません。人の心は様々です。何がその人にとって優れた道具なのか。それは人それぞれに違うものなのかも知れません。僕は会社設立当初、このシステムは世界を変えるかも知れないと思っていました。ひょっとしたら日本のジョブスになれるかも知れないとさえ考えていました。期待や希望は持つべきだとは思いますが、決して大き過ぎてはいけないことを知りました。SEAGELは今年で10年を迎えますが、僕が当初想像していたほど世界は変わりませんでした。しかしほんの少しずつですが、変わりつつあることも事実です。イラレでパターンを引くという世界で誰もやったことのない革命的な方法です。海の物とも山の物とも判らずに、そう簡単に鵜呑みにする人などいないのです。どんなに優れた物でも、それが広まるにはそれなりの時間がかかります。

シンナーの臭いが漂うESSEXの工場で、LENが僕に言った言葉が思い返されます。確かに彼の言うとおり、見たことのない道具に対し、業界はあくまでも冷静でした。人に言われて飛び付くほど、人は愚かではないのです。そして同時に、優れた道具を見逃すほど愚かでもありません。ハイブリッドカーがそのいい証拠です。今年はついに200万円台を切って発売されましたが、こうなるまでに何年の歳月が流れたでしょう。僕がその販売を諦めたころを境に、K+Lのボディーは徐々に業界に広まっていきました。口コミという最高のパブリシティーが功を奏しはじめたからです。どんなにカタログで謳っても頭を下げても買ってもらえなかったダミーが、山の朝焼けがゆっくり裾野に広がるように、徐々に業界に浸透していきました。気がつくと10年が経っていました。今では日本の有名ブランドのほとんどでこのボディーは使われています。いい物は必ず売れる。しかし明けるまでの夜は果てしなく長い。

イラレによるパターンメーキングシステムを発表した当時、この業界では、イラストレータという名前は勿論のこと、アドビシステムズ社でさえ無名の存在でした。あれから10年。すでに僕はジョブスの夢など捨て去っています。僕の役目は終わったと感じています。しかし最早イラレを知らない人はこの業界にいません。多くのデザイナーがイラレを頼りに仕事をしています。多くのパタンナーがイラレでパターンを引くようになりました。そしていつの日か、世界中のパタンナーがイラレで作業をしている光景が眼に写ります。もちろん僕がこの世を去った、すっと先の話ですが。

2009年。アトムの時代と夢見ていた21世紀ももうすぐ10年が過ぎます。僕はいい時代に生まれたと思っています。大きな戦争が終わり幸福な時代に生きています。かつて三陽商会の技術部長をなさっていた辻先生は、あの大戦争を戦い抜いた貴重な生存者ですが、この業界に残した業績は言葉では言い表せないほど偉大なものです。僕のパターンの師でもあった先生から、僕は多くを学ばせていただきました。先生のお書きになったステンカラーコートの仕様解説書は、今でも僕の宝物として大切に保管してあります。晩年の先生はヤマハの顧問をしてらっしゃいました。死ぬまで現役を続けられた職人の鏡です。僕の知る限り、日本に初上陸したMacを使い、日本で最初にイラレを使った縫製仕様書を作り上げた人物です。それはもう20年以上も前の話です。当時すでに先生は80歳を超えていらっしゃいました。しかしそんなことを誰が知っているでしょうか。誰も知らないのです。僕はこの先いつまでこの経歴を書けるのかわかりませんが、辻先生から授かったスキルを多くの若者に伝えるべきだと考えています。そして人知れず歴史を作った人間が必ず存在するということを、僕は忘れないで生きていきたいと思っています。辻先生のような、そんな存在になりたいと持っています。