パタンナーに限らず技術者にとって大事なことは、どんな種類の経験をどれくらい積んできたか だと思います。つまり仕事の質と量です。僕がこの業界に入った時代は、ファッションに枯渇した、服作りのいわば創世記のような時代です。ケンゾーやイッセイや川久保玲がデビューし、誰もが一生懸命物作りに励みました。新しい時代とはそういうものですが、誰ひとり手を抜くことなく、時間とお金と人生をかけて服作りに没頭しました。だからその時代に育った人々は、物作りの何たるかをわきまえていますし、手を抜かずにやれば素晴らしいモノができあがることを知っています。結果として、多くのスキルや技量が自然と身に付きます。

僕もそのひとりだと自負しているのですが、それは決して僕が優れていたからではなく、たまたまそういう時代に生まれ、そんな環境に巡り会っただけに過ぎません。そんな時代を経験できたおかげで今の自分があるわけですから、このラッキーな運命に感謝せずにはいられないのです。





1973年~
漠然と「デザイナー」という言葉に憧れていた18歳の頃、僕は代々木の有名なデザインスクールに通い始めました。学校に対する不信感は抱いたままでしたが、デザイナーのなんたるかも知らない自分にとっては、他に方向性を見いだすことができなっかたのです。しかし思ったとおりというか案の定というか、グラフィックデザインが専門の学校でしたが、授業の内容や講師の質の悪さに腹が立ち、半年ほどで中退しました。さあどうしょう。グラフィックがダメならファッションでもやってみるか。かなり軽めに物事を考えてた僕は、そう思って当時池袋でテーラーを営んでいた叔父の元を尋ねました。服作りを教えて欲しいと頼んだのです。

—–服作りは教えられる。しかし洋服で重要なのはパターンだ。パターンを勉強しなければ洋服は作れない。しかし自分には教えられない。身体では解っていても教え方が解らない。だから学校へ行け—–

そんなわけで僕は新宿にあるメンズの専門学校(今はもう潰れてしまってない)に通い始めました。しかしやはり思ったとおりというか案の定というか、授業の内容や講師の質の悪さに腹が立ち、1年ほどで中退してしまいました。どうして学校というところはそうなのでしょう。肝心な所を何も教えてくれない。僕は叔父の元に居候を決め込み、迷惑がられながらもそこで修行を積むことになりました。
当時はJUNやVANが全盛の時代で、バギートップのスーツが流行っていました。憧れのスーツを自分の手で作れるようになりたい。そんな情熱に僕は支えられ、叔父の技術をスポンジのように吸収していきました。

—–もうこれ以上お前の面倒は見られない。独立して稼げ—–

そんな叔父の言葉に逆らえず、 僕は新たな就職先を見つけることになりました。叔父の元に来て1年半ほどが経ち、僕も20歳になっていました。洋服作りで重要なパターンの技術などほとんど身についてはいませんが、就職するなら、どうしてもいきたいブランドがありました。それは「ビギ」です。僕は新鋭デザイナーとして売り出したばかりの菊地武夫先生の門戸を叩きました。叔父の元で身につけた腕を見込まれ、服作り人生がスタートしました。

1975年~
稲葉賀恵先生が率いる「ビギ」は多くの女性ファンを虜にしていました。そのメンズ版というかたちでスタートした「ビギ・メンズ」でしたが、その後「株式会社メンズビギ」として独立し、菊池武夫の新ブランドとして歴史を刻みはじめたのです。事業拡大のため多くの新人を採用していました。僕もそのひとりですが、同期入社は十数人はいたと記憶してます。僕たちは菊地社長を「タケ先生」その婦人であった稲葉賀恵先生を「ヨシエ先生」と呼び、彼らのアシストとして活躍する偉大な先輩方に囲まれての職場でした。

メンズビギを時代の覇者にせしめた原因はタケ先生の優れた先見性にあります。しかし一方、カリスマ的に若者の心を惹きつけたテレビドラマがありました。「傷だらけの天使」です。ショーケンこと萩原健一が主役の名作ですが、タケ先生自身が彼の友人であったことや、メンズビギのスタッフの多くがショーケンの昔のバンド「テンプターズ」の関係者だったこともあり、メンズビギはその番組をスポンサードしました。ショーケンの人気とタケ先生のセンスが、時代に大きなうねりを発信すると共に、若者達のハートを完全にノックアウトしました。

ドラマで使われる衣装のほとんどは、僕たちメンズビギのスタッフが作製しました。
池袋の叔父から習得した技術がモノを言いました。同期入社でまともにスーツの仮縫いができるのは僕だけでしたし、縫製や立体補正の技術だけは他の同期に対して大きなアドバンテージを持っていました。専門学校で習得したことが実社会ではほとんど使い物にならないことを実感しました。現代の専門卒業生を見てもそうですが、学校はいったい何を教えているのだろうと疑わざるを得ません。

タケ先生の評価とメンズビギの人気は竜巻のごとく舞い上がり、70年代の終わりから80年代初頭にかけて二度のパリコレを開催しました。初めてのパリコレということもあり、すべての作業を現地で行いたいという先生の強い意志で、スタッフは数ヶ月間パリのアトリエに籠もってコレクションの準備をしました。僕はまだペイペイでしたが、針仕事ができるという技術力を買われ、最年少スタッフとしてこれに参加させていただきました。

初めて渡ったパリは、ほとんど毎日、どんより曇った寒い日ばかりでした。アトリエは言わばタコ部屋同然でした。朝起きてアトリエまで歩き、一日中仕事をしてまたホテルに戻るだけの退屈な日が続きました。昼食はは街角のカフェでオシャレにと思ってみても、言葉も分からないしメニューは読めないし、唯一知っているクロークムッシュとコーヒーを頼むだけでした。パリはなんてつまらない所なんだろうとさえ思いました。そんな退屈なパリではありましたが、得るものもたくさんありました。特筆すべきはダミーとの出会いです。先輩と二人で偶然歩いていたパリの街角のブティックで、KENNETT & LINDSELLという美しいダミーに出会ったのです。僕はその美しいフォルムを見て、これならいいパターンが作れそうだと思いました。まだまだペイペイのくせに、不思議にもこの出会いが僕の将来を決めるかも知れないという予感がしたのを覚えています。

そもそも僕はデザイナー希望としてメンズビギに入社しました。しかししばらくはパターンの修行が大事ということで配属され、そのまま現在に至っているわけです。しかしおかげで僕は服作りの最も重要な部分を学ぶことができたと感謝しています。先に書いたように、多くの素晴らしい先輩デザイナーに育てていただきました。彼らのイメージする服を具現化する。たった一枚の曖昧な絵型から立体の人間が着る服を作り上げる。 パタンナーの仕事とはまさにこれであり、格好良くなるか悪くなるか、それはすべてパタンナーの腕にかかっていると言っても過言ではありません。デザイナーの価値観、好み、生活スタイルを共有し、彼らの頭の中にしかないイメージを実物として再現する。バックステージの目立たない存在ですが、パターンメーキングは服作りの核心を担う、重要でやり甲斐のある楽しい仕事なのです。